フルマラソン世界最遅記録
2018/12/16
フルマラソン世界最遅記録
マラソンは制限時間がありその時間以内に完走しなければ記録として残りません。市民マラソンで6時間や7時間以内が多くあり、通常であれば最遅記録など存在しません。ところがフルマラソン(42.195㎞)には最遅記録があります。
タイム | 氏名 | 所属 | 大会 | 年 |
54年8か月6日5時間32分20秒3 | 金栗四三 | 日本 | 第5回ストックホルムオリンピック | 1912 |
日本からストックホルムには船と列車で20日もかかり、この時期は白夜に近く寝不足になり、当時は日本食もなく、そんな中迎えに来るはずの車が来ずに会場まで走っていき、ストックホルムは夏でも20℃少し超える程度で過ごしやすいところですが、この年には記録的な猛暑で最高気温が40℃にもなり、参加者の約半数が棄権し、熱中症で亡くなる人がでるほどでした。金栗四三も途中で倒れ民家の人に助けられ目を覚ましたのは次の日でした。
地元では途中で消えた日本人の話がしばらくの間、話題になり民家でお茶とお菓子をご馳走になってそのまま棄権したなどの噂までたちました。
スウェーデンはストックホルムオリンピック開催55周年記念の式典をすることになり、オリンピック委員会は当時のレース中に失踪して行方不明扱いなっていた金栗四三の本当の理由を知り、式典でゴールさせようと決め招待しました。金栗四三は競技場をゆっくり走りテープを切りました。そのときのアナウンスが「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム54年と8カ月6日5時間32秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します。」・・・・・・・・・。
ストックホルムオリンピックでのマラソンの距離は40.2㎞で公認記録にはなりません。
金栗四三(かなぐりしそう 1891年~1983年)
熊本県出身の日本のマラソン選手です。1911年のストックホルムオリンピックで日本人で初のオリンピック選手の一人で、世界記録を27分も縮める大記録(2時間32分45秒:当時は25マイル40.225㎞)を出しました。マラソン引退後も日本のマラソン界の発展に大きく関わり「マラソンの父」とも呼ばれています。
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プロフィール
名前 | 金栗 四三 | ||
ヨミ | カナクリ シソウ | ||
生年月日 | 1891年08月20日 | ||
没 | 1983年11月13日 | ||
92歳 | |||
身長 | |||
出身地 | 熊本県玉名市 | ||
出身校 | 旧制玉名中学 | ||
出身大学 | 東京高等師範学校(現筑波大学) | ||
所属 | |||
マラソン成績
年 | 距離 | 記録 | マラソン大会名 | 順位 |
1991年 | 40.233㎞ | 2:32:45 | ストックホルムオリンピック国内予選 | 優勝 |
1912年 | 40.2㎞ | — | ストックホルムオリンピック | 途中棄権 |
1913年 | 40.233㎞ | 2:31:28 | 第1回陸上競技選手権大会 | |
1914年 | 40.233㎞ | 2:19:30 | 第2回陸上競技選手権大会 | |
1920年 | 42.75㎞ | 2:48:45 | アントワープオリンピック | 16位 |
1924年 | 42.195㎞ | — | パリオリンピック | 途中棄権 |
金栗四三の生涯
・1901年、玉名北高等小学校(現南関第三小学校)に入学し、自宅から約12㎞の道のりを毎日走って通勤する。これがマラソン基礎体力につながった。
※アジア勢がマラソンに強いのも小さい時から長距離を通勤し基礎体力を潜在的に身に着けているからと考えられる。
・1910年、東京高等師範学校(現筑波大学)に入学
・校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)に才能を見出されマラソンを開始。
・1910年ストックホルムオリンピック国内予選で2時間32分45秒(40.233㎞)をだし優勝。当時の世界記録を27分縮めたと言われている。
※1908年ロンドンオリンピックでアメリカのジョニー・ヘイズが2:55:18で優勝している。距離は42.195㎞。金栗四三のタイムを42.195㎞に換算すると2:40:12となり、27分短縮という意味がよく分からないが脅威的な速さに間違いない。
・1912年、日本人で初のオリンピック出場者。短距離の三島弥彦と2名が1912年ストックホルムオリンピックに出場。
・ストックホルムオリンピックでは行方不明になる。(98名中完走したのはわずか34名だった)
※55年後の1967年ストックホルムオリンピックでゴール(マラソン最遅記録54年8か月6日5時間32分20秒3)
・オリンピックを経験した金栗四三は、世界に比べ日本のスポーツが相当遅れていることを懸念する
・高等師範学校卒業後、22歳の時に石貫村(現玉名市)の医者の娘・春野スヤさんと結婚。
・結婚後もマラソンは続け実力をつけていく。
・1914年第2回陸上競技選手権大会で2:19:30(40.233㎞)で優勝
・1916年ベルリンオリンピックは第一世界大戦の為中止
・チームで走る駅伝を発案し、1917年駅伝東海道五十三次駅伝を企画、1920年第1回箱根駅伝を開催
・1919年下関から東京、1922年樺太から東京、1931年九州一周などを走りマラソン普及に努めた。
・1921年東京府女子師範学校に勤め女子テニス大会・女子連合競技大会を開催
・1923年関東女子体育連盟を結成
・1924年アントワープオリンピックでは2:48:45で16位
・1924年パリオリンピックは途中棄権
・当時は運動靴はなく、地下足袋で走っていたが金栗四三が地下足袋の底にゴムをつけるなどして金栗足袋を開発した。日本人のマラソンランナーの多くは金栗足袋をはいていた。
・教師をしながら学校をまわりスポーツの重要性を話し、競技会や運動会に顔をだしマラソンを普及していった。
・トレーニングは、暑さに強くなるために真夏の房総海岸で走ったり、富士山麓で高地トレーニングなどをした。
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